世界観が構成する世界

2021年3月22日

昨今はテレビやインターネットなど、各種メディアの発達により、様々な情報が簡単に手に入るようになりました。

取り沙汰される話題も種々様々ですが、とりわけ物議を醸す話題というものには、個々の世界観の影響が大きいと思うのです。

物事の基軸について考えてみるよ、ねぎです。

 

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いまから書き連ねていくことは、あくまでねぎの世界観であり、これに影響を受けようが受けまいが、それはあなたの自由です。

しかし、こうして発信しているからには、それなりに影響を受けて欲しいな、とも思っているわけです。

ブログなんかでは【他者に影響を与えたい】という思惑が特に顕著かも知れませんが、他のメディアも然り、ツイッターでさえ、個人(や団体)の発する意見というものは、多少なりとも他者の世界観に干渉する力を持っています。

こういった仕組みが見えてくると、少し世界観が変わってくるかも知れません。

以下、現象学をベースとしたねぎの思考の一端を展開していきます。

釣りブログですので、釣りに絡めていきますが、大枠としては釣りだけでなく、一般生活においても同様の思考をしています。

興味のある方は【現象学】もお勉強してみてね。

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世界とは何なのか

そもそも世界とは何なのか、という問いに対し、核心的なこたえは見つかっていません。

現象学において、世界の中心は自分であると考えられています。

物事について【○○はこうであると私は信じている】という価値評価(価値観)が個人の世界を構成しています。

各個人の価値観というのは、その個人が信じている思想そのものですから、他者から批判されがたい確信めいたものであると言えます。

後述しますが、人の価値観は、いろいろな影響を受けながら微妙に変化していきますので、常に一定というわけではありません。

変化していく価値観もまた、その個人の持つ価値観であります。

世界というのは、そういった各個人が集まっている集合体です。

集合体は、各個人の持つ価値観を受けて、集合体自体が価値評価を持つようになります。

即ち【世界とは集合体の価値評価によって構成されている】と言うことが出来ます。

 

3種類の世界

先にも書きましたが、自分の感じた世界は【自覚】として認知されますので、他の誰からも影響を受けない、自分の価値観であるといえます。

つまり、世界として認知されるものは、人(広くは生き物全て)の数だけあり、それぞれの世界観を持って生きているということになります。

しかし、個人は他者と交わりながら生きていかなければなりません。

違う世界観を持つ他者同士は、同一の場所や時間を共有することで、何かしらの影響を与え合いながら存在しているという可能性が非常に高いです。

相互に影響を受ける、というのがひとつのポイントで、各々に世界観というものを持ちますが、それは他者からの影響を受けて微妙に変化していくのが常です。

 

ところで、世界は3層で構造されています(3つの世界)。

1つは、自分の体験した世界(具体的経験の世界)=1次の世界です。

不可擬性の世界と言われ、このブログを見ているあなたの目の前にあるスマホなりパソコンなりの存在をあなたは疑う余地がありません。

あなたが実際に体験し、認知している世界です。

2つめは、自分が体験できる世界(伝聞・情報の世界)=2次の世界です。

例えば日本から出たことのない人がいて、アメリカやヨーロッパなどの実在を確かめたわけではないが、特に疑う理由がないので確信している、というレベルです。

実際には見たことも体験したこともなく、確実に「伝聞・情報」であるにも関わらず、不可疑の構造を持っているのが2次の世界の特徴です。

やろうと思えば体験可能な世界とも言えます。

3つめは自分の体験できない世界(フィクションの世界)=3次の世界です。

例えば「神様は居るのか?」とか、「死んだらどうなるのか?」というレベルです。

真偽の確認のしようがありませんが、例えばキリスト教の人は慣習的にキリスト教の教えにならい、イスラム教の人は慣習的にイスラム教の教にならい、それぞれその教範や神という存在の事実を信じていますが、それらの実在を証明することは恐らくできません。

 

3次の世界の持つ意味

自分の体験できないフィクションの世界(3次の世界)は、自身の生活にどのような影響を与えているのでしょうか。

実のところ、3次の世界は存在の確認のしようがないので、それ自体の存在確証の可否は然程重要ではありません。

それが正しいか間違っているか、という点ではなく、人々がそれ(3次の世界)を共通認識として共有していることというのが大変重要な観点です。

「真理(ただしい)」とされるものを共有することで、いいこと、悪いこと、きれい、汚い、といった物事への意味や価値を構成し秩序を共有します。

これらを教範(決まり)として認識することで、人々は一定の方向性を持って行動することが出来るようになります。

価値観が大きく異なるものは、同じ方向を向くことが難しいので、最終的には対立してしまいます。

有名な一節を引用しておきましょう(カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー)。

……人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。(中略)まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼしあってきたのだ。彼らは神を創りだし、互いに呼びかけた、《お前たちの神を棄てて、われわれの神を拝みにこい。さもないと、お前たちにも、お前の神にも、死を与えるぞ!》たぶん、世界の終わりまでこんな有様だろうし、この世界から神が消えるときでさえ、同じことだろう。

 

❝ルール❞とは何なのか

各人に個別の世界が存在していることは先に述べました。

それらの人々がひとつの共同体として平穏に生活を送るためには、ある一定の共通認識が必要です。

キリスト教であれ、イスラム教であれ、それぞれの信仰する教え(宗教観・世界観)が異なっているように、人々は3次の世界観を背景とした模範や規範といった共通認識(よいとかわるい、など)を共有することで、世界の秩序を形成しようとします。

これらの3次の世界は、実際に体験の出来ない、いわば【理念】のようなものであり、それを確かめる術もなければ、逆に言えばその理念を肯定することも否定することも事実上困難であることが分かります。

この【理念】が対立を起こした場合、それぞれは自らの理念を良しとしているわけですから、相手の理念は間違っていると主張するようになります。

では、どのようにすればこの対立は解消できるのか?

そのためには、【信念対立を認識の一致によってではなく、相互承認によるルール形成によってのみ解消できる】と語られています。

もっと解りやすく言えば、ルールとは理念の違う両者が妥協できるポイントを設定すること、であります。

意見を同じ方向に整えることは並大抵の努力では成し得ません。

それぞれの世界観は異なっているのですから、認識を一致させることはほぼ不可能です。

 

過去のログでも散々言ってきましたが、釣りというアクティビティにおいて、明確なルールというものは設定されていません。

これが種々の対立を招いている根源です。

ルールを作っても守らない、とか、そういうのは既に論外です。

ルールの在り方を根底から履き違えています。

ルールとはなにかという論点が解釈できていれば、ルールの設定のためにはその事柄について対立している者同士が、事柄について様々な意見を通わせなければ【妥協できるポイントの設定】が出来るはずがないということがわかるでしょう。

 

総じて見えてくる面白いポイントですが、こういったルールを決めようといった場面には、ルールを守らない人たちは意見を投じようとしません。

議論する気概がありません。

守る気が無いのですから、これほど無駄なこともないでしょうし、それはそうでしょうね。

意見を投じないことは無意見であるとの認識で間違いないですか?と確認してもリアクションしませんので、恐らく大した意見も持っていないのか、ルールが設定されることに大変な後ろめたい背景でもあるのではないでしょうか。

そうやって作られたルールは、概ね【ルールを作ろう!守ろう!】といった側の主張が盛り込まれますので、ルールを守りたくない人は、ルールが制定された後に文句を言いだします。

なぜルール作りの段階で文句を言わないんでしょうね。

 

過程は種々あるでしょうが、ルールを守ることで秩序が保たれるようにすることを目的にルールを設定するのですから、設定されたからにはそれを守るというのが前提です。

重ね重ね、釣り人としての在り方にも記載していますが、決まりは守りましょう。

 

ゴミ拾いをアピールすることは❝ただしいこと❞なのか

ゴミを捨てないことは正しいことか、ゴミを拾うことは正しいことか、ゴミ拾いをアピールするのは良い(正しい)ことか?

こういった問いというのは確かめようのない3次の世界になりますから、これを良しとする人もいれば、それに異を唱える人もいるでしょう。

そして、いくら論議したところで、こたえというのは最後まで出ません。

この【ただしい】とか【ただしくない】とか、【良い】とか【悪い】とか、【美しい】とか【醜い】っていうのは、概ね3次の世界が構成する世界観によって作られるものであり、それぞれ各個人が持っている1次の世界の集まり、つまり集合体としての世界の価値観が形成します。

 

ワタクシは【ゴミを捨ててはならない】と思っているわけですが、それが正しいかどうかは説明が出来ません。

逆に、それは正しくない、と説明されても、自身の理念を覆すほどの納得のいく説明でなければすり寄ることは難しいかと思うのです。

ゴミを捨ててはならないといった理念を振り翳すことに不快感を示す人も一定数(比率は分かりません)いるのは確かです。

 

わざわざゴミを拾って、SNSなんかにアップロードし、それをアピールしていることの意味、とはいったい何なのか。

それの概ねは、既にゴミ拾いをしている自分と同じような考えを持っている人たちから称賛を浴びたいわけではなく、対立意見である【ゴミを捨てている人】や【ゴミ拾いなんてしなくていい】と思っている人たちへのアピールに他なりません。

ことの根幹には、ゴミが捨てられたこと(を含む迷惑行為)で立ち入り禁止になったり釣り禁止になったりしてきたフィールドを見たり聞いたりしてきた経緯があり、今もなお迷惑行為に憤慨したり困っていたりする人たちがいて、立ち入り禁止や釣り禁止を検討している地域や住民がまだまだたくさんあるということにあります。

ルールの制定が難しいというならば、せめて相互の影響力に期待するしかないのです。

先にも述べたように、人の価値観は相互に影響を受けながら微妙に変化をしていきます。

ゴミが落ちていること、またそれらがどういった影響を及ぼしているのか、といったことをアピールするくらいしか、ワタクシに出来ることは残っていないのです。

 

ルールを作ることの大変さ

今回琵琶湖での(外来魚)釣りの有料化を検討、という話題が持ち上がりましたが、ここで注意しないといけないのは、琵琶湖で釣りをする人の意見と、それと対峙する位置にある市(市長)が存在し、それぞれが別の世界を語っているということです。

何度もいいますが、世界観は各人(またはそれらの集合体)によって違いますので、【釣りの有料化】と聞いて即座に賛否してしまう様相がちらほらと見られましたが、それぞれがどういった思想に基づいてそれを主張しているか、ということはしっかりと論議されなければなりません。

ことの大枠は、(外来魚)釣りやバーベキューなどのレジャー利用に関わる琵琶湖の地域資源の利用料をそれぞれに負担してもらおう、ということであったかと思います。

地域資源利用料というと随分曖昧な表現になってしまいますが、背景には湖面の維持管理に関わる経費や、外来生物の管理(駆除という言い方がどうにも引っ掛かりますが……)、またそれらの調査費などのようです。

ルールを制定しようとしています。

しっかりとした話し合いが必要な場面です。

経費がいかほどか、また、実際にどのような管理を指しているのか、というのが不勉強なもので詳細をよく知りませんが、それを【釣りをしている人に】負担させるのであれば、徴収金の用途は釣りに関連した範囲で留めるなど【お金を払って釣りをすることにメリットがある】と感じられる必要があるのではないかと考えています。

この範囲を越えるものについて負担を強いると、かならず反発が起きます。

 

さて、釣りをしている人の中にもいろいろな考え方のある人があります。

この件について簡単に分類してしまえば、お金を払ってもいいという人と、払いたくないという人でしょう。

理由も根拠も乏しいものに、お金を払いたいと思う人はおそらく居ないのではないかと思います。

ワタクシはたいそうケチなので、払いたいか払いたくないか、と問われれば、無駄なものは払いたくはありません。

しかし、理由や根拠が明らかになっていれば、それに応じた対価を支払う必要があると思っています。

払っても良いという人には、それなりに理念に共感できる部分があるのだと思います。

実際に釣り場を見れば分かりますが、いつの間にかきれいになっていたりしますよね。

釣り場を管理してくれているのは一体誰なのか?管理運営にいくらぐらいの経費がかかっているのか?それがなされなければどんな不具合が生じるのか?

そんなに単純で無い、いろいろ複雑な背景があると思います。

 

一方、そういったお金を払ってもいいという層の一部には、顧客思想主義とよばれる層が一定数かならず存在します。

【お金を払っているのだから何をしても構わない】というお客様体質の層です。

単純に有料化してしまうと、こういった層による状況悪化も懸念しなければなりません。

 

有料化するにあたり、窓口はどこになるのか?本当に全員から徴収できるのか?それらの見分け方は?監視員を常駐させるのか?

ルール制定の裏には、必ずルールを守らない者が出てきます。

決まりも守らない、お金も払わない、という層です。

これらは、ルールを守っている層にとっては大変迷惑な話であり、こういった層が現状の立ち入り禁止、釣り禁止を作ってきたといっても過言ではありません。

 

最後に

【類は友を呼ぶ】なんていう言葉がありますが、世界観の異なる他者とともに生活するのは非常に難しいものですから、当然心地の良い世界を共有できる人が相互に近くに集まってきます。

相容れない者も多くあるでしょう。

ただ、法律であったり条令であったり、決まり(ルール)として制定されているものには最低限したがって貰いたいのです。

何のための決まりなのか?

喧嘩がしたいわけではありません。議論をしましょう。

良き妥協点を見つけることが、未来を作ります。

 

閲覧ありがとうございました。

【釣り人としての在り方】
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